山縣亮太の中学・高校時代の卒アルを確認!部活は野球?幼少期や子供時代の画像も確認!

山縣亮太選手といえば、陸上の男子100mで9秒95という日本記録を持っているトップアスリートですね。

9秒台が4人いる激戦区の中で、見事な走りを見せて東京オリンピック出場を決めました。

そんな山縣亮太さんが、どのような学生時代を過ごしてきたか、気になる人も多いと思います。

今回は、山縣亮太さんの卒アル画像について、調査しました!ぜひ最後まで御覧ください。

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山縣亮太の中学・高校時代の卒アル画像を探してみた!

山縣亮太さんは広島県広島市出身で、地元にある広島県鈴が峰小学校、そして中高一貫校の修中学園に進学しています。

修道学園時代の写真はいくつか残っていますが、卒アル画像は残念ながら公開されていませんでした。

高校卒業後は、難関私立大学である慶應義塾大学に進学しています。かなり成績優秀だったのですね。

日本一脚が早い、そしてイケメンで頭も良いなんて、本当に完璧な選手ですね。

山縣亮太選手は小学4年生から陸上クラブに通い、翌年出場した全国大会では、100mで8位に入賞しています。

その頃から才能がずば抜けていたと当時指導していた恩師二人は語ります。

「特別早い立派な走り方をする子がおるんですよね。それが初めて亮太君見た時です。
衝撃を受けました、わくわくしました。上下左右に腰から上がぶれないんですよ。腿が良く上がるしね。
スピードももちろんダントツで一番だった」(広島ジュニアオリンピアクラブ・日山君代顧問コメント)
Yahoo!ニュースより引用

広島ジュニアオリンピックは、トップアスリートを何人も輩出している有名クラブ。

その会長が、次期Z気にスカウトして、指導していく中で、山縣良太選手はどんどん記録を伸ばしていきます。

すでに全国レベルだったので、他の生徒とは全く違ったそうです。

トップアスリートですから、幼少期の山縣亮太選手もプロから見て逸材だったのですね。

山縣良太さんの素質を見抜いて、クラブへ誘ってくれた会長の存在が、山縣亮太さんを作り上げていったのですね。

修道中学校時代は陸上部で、全国大会(全日中)出場を目標にして、高校時代はインターハイ出場を目標にしていました。

高校2年生のときに晴れて世界ユースに出場しましたが、世界とのレベルの差は感じなかったそうです。

この出場をきっかけに、国内のみならず世界大会でも上を目指そうと思うようになったそうです。

高校時代は部活以外の思い出はあまりなかったのですが、山縣亮太さんのクラスは難関国立大学を目指している生徒が多かったとか。

そんなクラスメイトからすると、山縣亮太さんのように部活に打ち込んでいる生徒は珍しく見えたと思います。

山縣亮太の部活は?サッカーや野球も得意ってホント?

山縣亮太さんは陸上に限らずスポーツが大好きで、小学生からサッカーと野球をしていたそうです。

メダルとか賞状という表彰されるものが好きだったそうで、大会に出場し、賞状とかをもらうのがとにかく嬉しかったそうです。

山縣亮太さんの2歳上の兄が陸上をしており、大会で8位入賞になったときに大きな賞状をもらっていました。

その姿がとても羨ましかったそうで、山縣亮太さんも大会に出て賞状がほしい!と思ったのが、陸上を始めたきっかけでした。

スカウトをうけて小学校4年生から広島ジュニアオリンピアクラブ(JOC)に入り、本格的に陸上人生がスタートします。

当時は陸上クラブ自体が少なかったのですが、広島ジュニアオリンピアクラブは為末大選手も通っていたほどの有名なクラブでした。

しかし、このときまだ山縣亮太さんの夢はプロ野球選手で、野球、サッカー、陸上をかけもちしていたそうです。そのバイタリティがすごいですね・・・!

しかし、初めて出場した広島市陸上大会で優勝したことで、「自分が優勝できる種目で勝負したい」と思うようになりました。

そこから、陸上以外への気持ちは遠ざかり、小学5年生のときに出場した日清食品カップで8位入賞したことで、陸上一本に絞ったようです。

高校時代は広島県高校総体や、中国高校総体で優勝に輝いており、その後の進路選びにもかなりの影響を与えたといいます。

大学に進学してからも陸上を続ける気持ちはありましたし、勉強や卒業後についてもいろいろと考えたそうです。

慶應義塾大学を選んだのは、「慶應競走部の自由な競技環境であれば、自分のやりたい練習をすることができる」と感じたからだそうです。

もっと上を目指す山縣亮太さんだからこその決断ですね。

中学・高校時代はひたすら走ることが練習の多くを占めていました。当時は、走る筋肉は走って作るという考えを持っていましたから。でも、高校時代に骨折をしてしまい半年間走れない時期がありました。その時にトレーニングに加えたのが、補強の筋トレでした。走りにおいて体幹を鍛えることの大事さを改めて感じることが出来ました。
スポーツ報知より引用

オリンピックや世界をはっきり意識したのも、大学生になってからだったそうです。

山縣亮太の幼少期や子供時代の画像を確認!

山縣亮太さんは幼少期から走ることが大好きで、野球やサッカーもしていたスポーツ少年でした。

地元の広島カープが大好きな野球少年で、幼いころはプロ野球選手を目指してたそうです。

兄の影響で陸上をはじめ、大会で優勝したことをきっかけに広島ジュニアオリンピアクラブの会長夫妻にスカウトされ、本格的に陸上の道へ進むことになります。

会長夫妻はかつてオリンピックに3回出所した為末大さんも指導しており、地元ではかなり有名なクラブだったそうです。

2002年春、広島市で開かれた陸上大会で、夫妻は当時小学4年の山県さんの走りを初めて見た。
100メートルに出場し、2位に大差をつけて優勝。上半身が上下左右に揺れず、もももしっかり上がっていた。「こんな子はめったにおらん」。前だけを見て、さっそうと走る姿に目を奪われた。

スポーツ報知より引用

現在は、広島市で陸上クラブ「広島ジュニアオリンピアクラブ」で顧問を務めている日山君代さん・正光さん(故人)。

1985年にクラブを立ち上げ、もともと高校教員で陸上部顧問の正光さんが会長をつとめ、中学校体育教員だった日山さんが副会長を務めていました。

「夢はでっかくオリンピア」という合言葉をかかげ、30年以上もの間子どもたちを指導してきました。

山縣亮太さんの驚きの走りをみた夫婦は、「うちのクラブに入ってもらわないといけない」と、応援に来ていた山縣亮太さんの両親と祖父母に名刺を差し出しました。

しかし、当時の山縣亮太さんは広島カープの大ファンで、完全なる野球少年でした。

両親は「少年野球に入っているんです」と断るも、熱心に「練習に来てほしい」と誘われたそうです。

その一週間後に山縣亮太さんは父親とともにクラブに向かい、陸上を始めます。最初は少年野球チームと掛け持ちしていたのですが、山縣亮太さんは「僕、かけっこをする」と両親に宣言したのです。

誰に強制されたわけでもなく、陸上に専念するようになりました。

陸上に打ち込んでいる中でも、山縣亮太さんは勉強もおろそかにしない子供だったそうです。

山縣亮太さんは勉強について、そんなに得意なタイプではなかったといいます。

ただ凝り性な性格なので、何かを始めるとそれにのめり込み、やり始めると止まらなくなるのだとか。要領がいいわけではないと話していました。

陸上をやりながらも学習塾に通っていたそうで、父の母校である修道中学を受験することになりました。

広島県でも有名な中高一貫校で、総理大臣や政治家、実業家も輩出しており、難関私立大学や東大合格者もいるほどの名門です。

中高6年間は全国大会に出場し、世界ユース選手権でも入賞したりと陸上漬けの日々を送りますが、決して勉強を疎かにしませんでした。

300人いる生徒の中で、山縣亮太さんの成績は常に50番以内と上位だったそうです。

「その時は完璧主義なところがあった。年齢とともに完璧じゃない、人間らしさに魅力を感じ、価値観も変わって来るものだけど、当時はとにかく“何でもできることがカッコいい”という理想があって『(勉強も部活も)やってやろう』と思っていた。得意科目は社会、世界史でしたね」
週刊現代より引用

スポーツ強豪校となると、部活優先で勉強がおろそかにいなることも多いと思いますが、山縣亮太さんいわく「部活と勉強は共通項がある」そうで、“学び”は陸上においても重要だったそうです。

慶應大学時代は部活仲間と仲が良く、一緒に自転車旅行に行ったこともありました。

東京から愛知県岡崎市まで自転車で向かったそうで、箱根の山越えをしたときは雪が降ってかなりキツかったそうです。

ずっと仲間に恵まれてきたからこそ、今の山縣選手があるのかもしれませんね。

まとめ

今回は、山縣亮太さんの卒アル画像について、紹介しました。

残念ながら卒アル画像は公開されていませんでしたが、学生時代からイケメンなことが分かりました!

幼少期からスポーツ少年で、野球やサッカーもやっていましたが、小学4年生からは陸上一本に絞っていたようですね。

これからの活躍も期待したいですね!最後まで御覧いただきありがとうございました。

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